全ての感情は比較から生まれる

数年前、アメブロに投稿した
記事の復刻版です^ ^


雨の日


今日、名古屋は雨で、
朝からしっかりと雨の日だったおかげで、
雨の日をしっかり満喫できました。



私は一応主婦なので、
日々の家事があるんだけど、


ここまで雨だと、
洗濯するという選択がない。



だから、晴れの日に常にある

「今の内に洗濯しとこう」

という感覚から解放される。





晴れてたって、
洗濯しない選択をする日だってあるし、
したくても出来ないときもある。




でも雨の日の方が、
断然洗濯しないという選択が
心置きなく出来るんだよね。



物理的にできなくて
割り切れるから(笑)

 

傘



全てのストレスは比較から生まれる。




晴れの日に、もう1回洗濯機まわすか、
まわさないか。



晴れの日なのに、
洗濯できなくて洗濯物がたまってしまうか、
洗濯して洗濯物がたまらないか。



あっちがいいか、こっちがいいか。



だけど、晴れの日だろうと
雨の日だろうと洗濯しなければ
洗濯物はたまる。



出来事は同じなのに、

「もっと~できるかも、できたかも」

という架空の現実と比較して、

一喜一憂の感情を生み出している。





生まれてから死ぬまでずっと
雨の日しか知らないなら、

洗濯できないストレスも、
洗濯しなくていい解放感も体験できなかっただろう。



生まれてから死ぬまでずっと
リラックスしていたら、

それはもうリラックスではなく、
フラットでもすらなく、
名前さえつかなかった感覚だ。




一瞬でも緊張とか
ストレスとかを感じるから、
リラックスという体験が生まれる。



ストレスだけでなく、感情って全てそう。

夕陽

「わーこんなことしてくれるんだ、嬉しい」は、

こんなことされない事と
比較をしてるから。




「そんなことされて許せない!」


は、そんなことされない事と
比較してるから。





「そんなこと言われて悲しい」

はそんなこと言われない事と
比較してるから。



「楽しい!」

だって、楽しくない事と
比較してるから。




よく、私も含め、
悟りや非二元の人が言う



「全て愛っていうのはどういうことですか?」


と聞かれるのだけど、

答えはとっても簡単なんだよね。




比較を完全にやめたら、
どうなると思いますか?




比較をしなくなったら、
そこには何が残りますか?





全てが愛っていうのは、
比較を完全にやめたときに、
ただそこに在るもののこと。




二元性は、比較のこと。



でもそれが悪いんじゃない。



「わたし」以外の存在によって、

「わたし」は型取られている。

(かのように感じられるもの)


飛行機雲





「あなた」がいないと

「わたし」にはなれないし、




「違う色」がなきゃ
「色」は存在できないし




「不幸」がなきゃ
「幸せ」を感じることはできない



人、地面、服、

全てが「わたし」の境界線だ。



全て概念だけど、

概念が「わたし」の境界線だ。




「わたし」は概念という
全てで創られている。

 


何一つ欠けても成立しない、
この完璧さ。





雨のおかげで、晴れを感じられる。



今日も愛に満ちていました(^^)


神の光
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2021年3月14日